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短編小説・鹿鳴館の淑女たち6

短編小説・鹿鳴館の淑女たち6


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                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち5




とある日の事、
「歌子先生」
と梅子。
「ああ、梅子先生、何か?」
と答える。
「森有恒文部大臣もお見えになるのでしょうか?」
と質問する梅子。
鹿鳴館の舞踏会を意識しているのである。
「ええ、勿論ですわ」
と歌子。
「やっぱり、そうですわね」
と梅子。
「文部行政に精通しているのは、あの人を置いて他にはありませんから」
と歌子。
「ぜひ奇遇を得たいものですわ」
と梅子。
「ええ、上手くいけば、きっとあなたのこれからが開けてくると思います」
「頑張りどころですね、歌子先生」
「そうですよ、あなたの、勝負どころです」
森有恒は、元治二年。薩摩藩派遣の留学生として欧米に出かけている。明治三年には再び渡米して外交活動をするかたわら、欧米の宗教、教育、文化について研究している。
帰国後、福沢諭吉、西村茂樹らとともに活動するのである。いわゆる欧米派と言われ人たちである。
明治十八年十二月。第一次伊藤博文内閣の初代文部大臣になっている。近代教育の確立と学制の充実。なかんずく、中、高等教育の充実に乗り出すのである。
悲しきかな、二十二年二月十一日。帝国憲法発布の当日に、国粋主義者によって暗殺されたのである。
有恒を偏った欧米化主義者と決め付けた者の誤解によるものである。
有恒は、日本人の知的レベルの高さを、良く理解していた、進歩主義者でもあったのだ。

明治二十年、伊藤博文が主催した仮装舞踏会。
岩倉具視の次女に、不埒な行いに及んだ事件は、『女学雑誌』で暴かれてから、更なる波紋を読んで行くのである。『公爵様』と岩倉の次女。
「これはこれは、岩倉様の」
と博文。
「公爵様は、鳳仙花の花言葉を御存じですか」
と次女。
「いいや」
と生返事。
「花言葉は、私に触らないで下さい、と言う事ですわ」
と冷たく言い放つ。
「いや、これは参ったなあ」
と博文。照れ笑いをするのである。
傍らにいた壬生小夜子。
「品性を疑いましたわ」
と彼女。
小夜子はじめ淑女達の顰蹙を買ったのである。

ここで話を華族女学校に戻してみたい。
最初の生徒は八名であったが、順次増えていった。
「歌子先生、先生の思い出に残っている生徒は?」
と小夜子。小夜子も生徒になったのである。
「私が、一日たりとも脳裡を去らぬ生徒は」
と歌子。
「それは誰ですか?」
「やはり、奈良原繁男男爵の令嬢ですね」
と歌子。
「時子様ですか?」
「ええ、死んだ子は顔、美しいものです。何かにつけて良い点ばかりを思い出すのです」
「それが人の世の常でありましょう」
小夜子は歌子先生に気に入られたいからしきり近づく生徒なのである。
「私は今でも、時子様、古の賢人に劣るとは思われません」
「歌子先生は、親しく教鞭を執って、日々接しておられましたから」
「級友の内、群を抜いた学力」
「優れた知恵を持っておられたのですね」
「中でも、理科学の方は、天才とも言うべきものがありました」
と歌子。
「天才的な」
驚きを隠せない。
「理科学に優れているだけに、頭脳は極めて明晰でした」。
これは意外な会話と言える。
伊藤博文や井上毅、西村茂樹『校長』が目指していた人物像とは、明らかに違っている。
「絶えず勉強していましたねえ」。
時子の父君は、前の沖縄県知事であり、勤皇の志士であった。あまりにも若過ぎる死を惜しむのである。

少し日々は流れて、大和田建樹は旅の空の下にあった。
建樹は東子が教鞭をとる、女学校に来ていのである。東子が心密かに愛した人は、師である建樹だったのかもしれない。師弟の絆で結ばれていた二人。別離を乗り越えて再会したのである。
建樹は、東子の要請を受け入れて、出張講義をすることになったのである。少しも苦にならない建樹。東子に導かれて応接室に入る。
机を据えて、白菊と青南天とを瓶に刺したるのを見て、
「ああ、女学校だね」
と語るのである。
東子は、そんな先生の言葉に感性の豊かさを知ったのである。
東子は露草が大好き。ツユクサ科の一年草で、高さ三十センチメートルにもなる。葉柄は鞘状。夏藍色で左右相称の花になる。友禅染めの下絵に使われる青花紙の原料として、今でも青花は栽培されている。
ここで、信濃の美しき花東子が、どうして鹿鳴館に出入りして、活躍できたか、書いておかねばならないだろう。
当時、鹿鳴館では淑女の不足を補うため、華族女学校に応援を頼む事が、少なからずあった。東子は、小夜子と共に参加する事になっていた学友の身代わりなったのである。
一日だけの舞踏会を経験したのである。これには東子の好奇心もあったが、小夜子のちゃめっ気もあった。当時、華族女学校では西洋音楽を取り入れていたから目をつけられたのであろう。
さて、東子はどうして小夜子を知ったのであろうか。
東子は京都を旅していた。平安京と、三十六歌仙の故郷を訪ねての旅路の途上にあった。

さて、小夜子は東子のどこを気に入ったのであろう。
「私の何処が良いの?」
と東子。
「国文学、なかんずく、郷土の民族学に対する、深い造詣ね」
と、小夜子。
「そう」
「あなたの全てが信濃の太地」
と、小夜子。
「小夜子様の言の葉は、平安の調べそのもの」
と、答える東子。
古都、京都の南北を貫く大路に向かう二人の姿。しなやかで、長身の二人の乙女の姿は、ひときわ美しく映えたに違いない。
東子は言う
「鹿鳴館はあなたを必要とするでしょう」
「ええ、私の人生芝居は、鹿鳴館から始まるのでしょうねえ」
と、答える小夜子。
小夜子は、自身の美貌に惚れ込んでいた。
「そうだ、東子さんに鹿鳴館を見せてあげる、ね、良いでしょ」
「有り難う」
生半可な返事をする東子であった。
そして、明治二十一年の七月十一日を迎えたのである。
内閣総理大臣に、白爵、黒田清隆。大蔵大臣に松方正義。
十二日。文部大臣に、子爵、森有恒。通信大臣に、子爵、榎本武揚が発表された。
十三日、華族女学校校長に、陸軍中将、谷干城。
梅子は問いかける。
「歌子先生、納得できません」
「何がですか」
と、歌子。
「谷陸軍中将が、校長になられた事ですわ」
と梅子。
所謂、欧米で言う所の、司法、教育の中立性であろう。
「別に、問題はないと思いますが」
と、歌子。
歌子は、勤皇の志士に対して特別な思い入れがあった。それは、厳父も、祖父も名の知られた勤皇家であったからだ。梅子と言えば、欧米の教育理念を理想としていたから、軍人が校長に就任する事に抵抗があったようだ。
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まとめtyaiました【短編小説・鹿鳴館の淑女たち6】

短編小説・鹿鳴館の淑女たち6                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち1               ...

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プロフィール

白浜 砂夫

Author:白浜 砂夫
どうも ”しらはますなお” です。

岐阜県大垣市在住
昭和24年1月11日生まれ
67歳
B型

好きな歌人は、女性では与謝野晶子、男性では、島崎藤村、石川啄木です。詩や和歌や小説を書き始めて20年あまりになります。鹿鳴館を舞台にした小説を書いております。63歳にして一念発起してパソコンを始めました。ブログにも初挑戦です。

最新出版物
白浜砂夫の電子書籍




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