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短編小説・鹿鳴館の淑女たち5

短編小説・鹿鳴館の淑女たち5


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時代の流れよ、お前は何を語ろうとしているのか。
西郷隆盛の征韓論は破れ、隆盛城山に自陣す。これは、幕末より続く攘夷の終末を意味している。
「我らの時代の到来よ」と、長州閥の頭目、山縣有朋はほくそえんだ。果たして、傑出した政治家というものは、庶民が作り出すものなのだろうか。とてもそうとは思えない。時代という大河の流れが作り出すものかもしれない。木戸孝允、伊藤博文、薩摩閥の大久保利通、黒田清隆らは、維新という時代の流れが生み出した政治家であろう。「今流れはどこを向いている」と鹿鳴館で語られる言葉は、意味深長ではある。国内の氾濫分子を完全に押さえきり、内冶はここに成ったのである。
時代の流れよ、お前は、また、語らねばばらないだろう。対外へ、別けても日清、日露との外交は緊急を要していたのである。時代の流れは、外交手腕に長けた政治家を作り出そうとしているのであろうか。必要としている事は確かである。
京都の人々は、関心のある事を、洒落ていう言葉として、北山時雨という。
北山に時雨の降る頃が勝負の時のようである。
今、国民の一番関心のある事は、やはり憲法制定と、国会の開設であろう。
市井の政治家は、政党の結成を進めてゆくのである。
鹿鳴館では、長州閥、薩摩閥、台頭してきた自由民権派の、虚虚実実の駆け引きが続くのである。仮面の下に隠した魔性の人格と、魔性の人格を巧にコントロールできるしたたかさがなければのし上がれない。ここは主戦場なのである。
まして、鹿鳴館では淑女たちに嫌われたら終わりである。
勝利のキャステングボードは誰が握っているかをよく理解しなければならない。

時代という大河の流れは、時には、何と激しく刹那に流れて行くものであろうか。
浮かび上がる者と流されていく者、あるいは溺れていく者。溺れていく者の哀れなる事はこの世の定めなるかな。
明治二十一年九月、二十六歳の、森鴎外はドイツから帰国した。二十三年、陸軍軍医学校の教官となっていたが、小説『舞姫』を発表する。
鹿鳴館の淑女達の間で、密かに囁かれていた結婚相手は誰になるのであろうか。
その相手となる、海軍中将赤松則良男爵の娘、登志子もその中にいた。
また、笠原の東子といえば、
「時代よ、激動なさりたければ、どうぞ御勝手に」
と言って、初志貫徹のままに、故郷に帰って教師になった。
建樹は、彼女の能力を惜しんで、本学に残って研究に励むように進めたのである。適切な助言ではある。
当時、東京には欧米からの文化や、科学、技術が大量に入ってきていた。
東京は時代の最先端にあったのである。
建樹は、この首都東京で、学者としての才能を花開かせてやりたかったのかもしれない。
東子といえば、豪農の子女とも、村長の子女とも伝えられているが、笠原のと言えば、相当名の通ったところをみると、郡長か郡書記を務めた事もある名家だったのかもしれない。
明治という時代を生きた女たち。樋口一葉もそうであったが、時代の流れを超越して生きようとしていたのであろう。

時は同じ頃、明治二十年初春の事。
心の氷はつれなくも、名のみの春では、溶ける事もなし。
心と心を通わせあったのも、今は昔の事なのか。
「出かけてくる」
と伊藤博文。
「あなた、いいわねえ。少しくらい酒を飲むのは良いけれど、でも、飲み過ぎると言うのは」
と夫人。
「分かった、分かった。少し控えめにするよ」
と博文。
「飲み過ぎると言うのは、どんな人格なのでしょうねえ」
と夫人の冷めた言葉。酒面で帰ってくる主人をもう見飽きている夫人である。
「うーん、常識を超えている」
と博文。開き直りとも聞こえる。この、酒癖の悪さが、やがて悲劇をもたらす事になるのである。
夫人は、白芸者上がりである。同じ芸者上がりの夫には、元駐米公使の吉田。同じく公使の九鬼。それに井上馨などである。
「この激動の時代を生き抜いてゆくには、お前が必要なんだ」
と言って口説いたのであろう。
あの幕末から維新にかけて、生死の狭間で燃焼した愛は、遠い過去の出来事になってしまったのか。二人の仲は冷え切ってしまっている。この事は、広く世間にも知られるようになってきた。これらの事に関して、梅子の悩みは尽きなかった。
一つは、欧米には身分として、芸者が高貴なる人の夫人に納まっている事などありえない。
梅子は、欧米の家政事情に精通していたからなおさらである。
もう一つは、二~三年前まで、伊藤の二人の娘を預かり、英語などを教えていた手前、伊藤家の家庭事情にはことのほか気を使っていた。梅子もまた、欧米文化と教育への憧れと目標がある。ああそれなのに、それなのに、全ては維新と言う時代の流れが作った事であるから、梅子あなたならどうする?

明光は正義に通じる。
不正を白日の下に晒けだすのが善行であり、闇に葬るのが悪行である。
漆黒の闇に葬って良いものと、そうでないものとの峻別を、はっきりさせる事は、やがては正義に通じる道ではないだろうか。
さて伊藤博文はと言うと、先に華やかな舞台に登場していた、木戸孝允、大久保利通らに比べて遅れをとっていた。
そんな博文が、歴史の華やかな舞台に登場してきたのは、明治も十三年になった二月の事である。
当時、元老院議長の要職にあった有栖川宮熾仁親王。
親王は、
「立憲について、諸参議の意見を聞きたい」
と発言を求めた。
これに対して、黒田清隆伯爵、大木喬伯爵、山田顕義伯爵や、井上馨侯爵、山縣有朋公爵と共に、促誠の意見書を、上申(上申書)したあたりからであろう。
博文はついに、歴史の表舞台に登場したのである。
明治十五年二月。今上様は、いわゆる世間における、政治家、知識人、学者らの論戦を
深思に受け止め、身命を掛けて、玉座を出られて御前会議に臨まれたのである。
有栖川宮熾仁親王。三條実美、岩倉具視らに対して『憲法制定』について御下問に及んだのである。ここから、憲法制定、国会開設の流れは加速していったのである。
当時、今上様は、漢学を高辻修長子爵の父君に学び、和歌を西三條定義の祖父、西三條季知に学んでいる、いかでか、我が心の月を表して、平安の世永らせむと望まれたのであろう。平安の世を永くと言うのも、頂点に立つ者の求めるべき政策であらねばならない。
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プロフィール

白浜 砂夫

Author:白浜 砂夫
どうも ”しらはますなお” です。

岐阜県大垣市在住
昭和24年1月11日生まれ
67歳
B型

好きな歌人は、女性では与謝野晶子、男性では、島崎藤村、石川啄木です。詩や和歌や小説を書き始めて20年あまりになります。鹿鳴館を舞台にした小説を書いております。63歳にして一念発起してパソコンを始めました。ブログにも初挑戦です。

最新出版物
白浜砂夫の電子書籍




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