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短編小説・鹿鳴館の淑女たち4

短編小説・鹿鳴館の淑女たち4


                                                 短編小説・鹿鳴館の淑女たち1


                                                 短編小説・鹿鳴館の淑女たち2


                                                 短編小説・鹿鳴館の淑女たち3




さて、その建樹の教え子である、笠原の東子はどこの地にいたか。
東子は、月の名所で名高い信濃の生まれである。月の名所と言えば、明石、広沢の池がある。東子が語るには、信濃には童歌に良いものがあると言う。
手毬り歌や、鳶や雀。あるいは烏など歌ったものには、実に素朴で良いものがあると言う
のである。郷土文化の研究に生きる東子らしい。また、東子は、信濃の国には、神無月はないと言う。出雲の神様が、神無月になると黒い雲に乗って、信濃の国の諏訪湖へお帰りになるからだと言う。東子が故郷に帰って、女学校の教師となった年月はあまりに短かかった。
ああ、美人薄命なり。命短し恋せよ乙女、熱き血潮の消えまに、華の輝き失せまに。
東子は偶然から、華族女学校の生徒と知り合いになり、短い間ではあるが鹿鳴館で活躍するのである。華やかに進む欧風化の東京、そして、社交界の主戦場鹿鳴館。
鹿鳴館は、彼女の出入りを否定しなかった。
欧風化の進む東京と教育、伝統文化と芸術、教育を守るという、次代の嵐に、当時の優秀な女性教育者は翻弄されていた。
東子が、恩師大和田建樹の助言を振り切り、故郷信濃の女学校の教師になったと言う事は、恩師への返答というより、時代の嵐に対するしっぺ返しと言うべきであろう。
東子もまた、明治の女なのである。

さてここで、高貴なる人の邸宅と言うものはどう言うものか、公卿はどう動いていたのかと言う、裏話を交えながら書いてみたい。
摂家の中には、御所の内に本宅を持つ家もあったが例外と捉えて頂きたい。必ず正門、いわゆる表門と、裏門が存在する。
母家『おもや』の他に、離座敷『はなれ』があり、書院が存在する。また、その位置によって、表書院と奥書院もある。
武家の出は黒書院、公家の出は白書院を尊んだようである。
公爵様の中には、本邸『本宅』の他に別宅を所有する人も居たのである。
さてここで、贈答品を届けるには、どうすればいいかと言えば、当主の依頼を受けて手代が本宅を訪問する。
裏門から入って、奥の勝手口と足を運んで、女中頭に声を掛けなければならない。
奥向きの事は、この女中頭が実権を握っている。彼女に嫌われたらお仕舞いである。叩き出されるだけである。丁寧に挨拶して、奥方様への取次ぎをお願いするのである。そして裏玄関に戻って、奥方様の登場を待つのである。
奥方様のお出ましにあたっては、深々と頭を下げなければならない。
次に、当主や店主からの口上を述べるのである。仮にも当主の名代であるから、言葉は丁寧に凛としていなければならない。
間違っても表玄関から入ろうと思ってはならない。分をわきまえる事である。
贈答品と書状を差し出してから口上を述べるのである。
終わりに、
「くれぐれも、ご主人様にはよしなにお伝えください」
と申し述べるのである。
これを受けて、
「御当主(店主)様には、よしなにお伝えください」
と答える奥方様。頭を下げてくだされば上首尾と言うものである。

さて、その高貴なる人たちであるが、二家はどのように動いたのであろうか。
激動の幕末、当時関白であった、九条尚忠(まさただ)は、幕府の大老、井伊直弼と連携して、将軍に紀州の慶富を擁立(きしゅう派)し、この難局を乗り切ろうとしていた。
攘夷の無謀を知り、開国しながら、新たに富国への方策を探っていた。
対決する、左大臣近衛忠ひろ(ただひろ)は、長州の詩僧、月照を知恵袋に、朝廷内の攘夷派と村岡を動かし、一橋慶喜の擁立(一橋派)を画策していた。あくまで、攘夷の断行を迫って行くのである。風雲は急にして、正に一発触発の危機にあった。
ああ、維新は遠くなりにけり。

さて、話しの続きを元に戻そうではないか。
明治二十年、四月二十六日。内閣総理大臣、伊藤博文が、総理官邸で主催した、仮想舞踏会。この舞踏会で、ベネチアの紳士に紛した博文が、岩倉具視の次女に不埒な行いに及んだと伝えられている。博文は酒豪であったから、酒に酔った勢いでした事とも考えられるが、真実は明らかにされていない。
当時、自由民権派の運動家は、外交の不手際と、農政の不在を理由に、政府を攻撃していたから、格好の材料にされたのであろう。
まあ、伊藤の心底を読み取るに、岩倉が存命中は、今上様の重臣であり、伊藤は、従臣であり、臣下にすぎない。
岩倉は、ことのほかこの立て分けには厳しかったし、常々、早急な政策の遂行を迫っていたのである。伊藤にとって、目の上のコブが取れた今は、しっぺ返しに近いものがあったのかもしれない。

明治を駆け抜けていった女たちよ。あなた達を、心の鏡で見るならば、その心は太平洋よ
り広く、心の丈は富士山より高いと言わざるを得ない。
若松しず子と津田梅子は、夫厳本善治を介して知り合ったものと思われる。欧米への憧れ。しとやかで美しく、人形のように可愛い女性ではなくて、とと『考える女性、知恵と行動力を兼ね備えた女性』、それが二人の理想として、心の花園にあったのである。
若松しず子。会津藩士の娘、明治期を代表する文学者であり、女流翻訳でもある。『女流雑誌』に創作を発表。また、『小公子』『小公女』などの翻訳を通じて、英文学を紹介している。惜しむらくは、三十三歳の、女の厄年を前に亡くなっている。
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」とは、彼女の為にある言葉のようである。
生き抜いて、研鑽あれば、明治の文学にどれ程の光明を与えたか計り知れないものがある。
しず子とともに、見を落せない淑女に大塚楠緒子がいる。楠緒子は、歌人、詩人であり、小説家である。「未来に生きる」と楠緒子。それが、若松しず子へのはなむけの言葉なのだろう。楠緒子は、和歌を佐々木信綱に学んでいる。小説は『晴小袖』などがある。やがて、与謝野晶子と同じように、反戦的な誌を作るようになるのである。
女性の愛と情熱のままに、晶子と共どもに、反戦と文化の繁栄に生き切ったと言うなら、
これも明治の女。百花繚乱とはこの事なり。
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まとめtyaiました【短編小説・鹿鳴館の淑女たち4】

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プロフィール

白浜 砂夫

Author:白浜 砂夫
どうも ”しらはますなお” です。

岐阜県大垣市在住
昭和24年1月11日生まれ
67歳
B型

好きな歌人は、女性では与謝野晶子、男性では、島崎藤村、石川啄木です。詩や和歌や小説を書き始めて20年あまりになります。鹿鳴館を舞台にした小説を書いております。63歳にして一念発起してパソコンを始めました。ブログにも初挑戦です。

最新出版物
白浜砂夫の電子書籍




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