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詩・今日の空

詩・今日の空

おお、今日の空は、良い空だ。
良い空だと答えてもいる。
風は、少し強いけれど、それでも、
今日の空に、似合っている。
現実が厳し過ぎるほど、
明日さえ見えない、暮らしの中で、
今日の空を求め、見上げるのだ。
それも、これも、未来を信じて生きて行く、
私だからだ。


平成二十四年五月十八日作
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短編小説・鹿鳴館の淑女たち8(了)

短編小説・鹿鳴館の淑女たち8(了)


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち1


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち2


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち3


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち4


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち5


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち6


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち7




東京からこちらへ参りました。
家並みの綺麗な事、瓦の正しさ、女の綺らびやかさ、道行く人の穏やかな面輪。
世の中には、本当に不思議な所もあるものと感じました。
東京では、あの埃りっぽい中を、歩いたりする事に躊躇いがあります。
でも、こうして懐かしい故郷に帰り、聞きなれた鐘の音を、朝な夕なに親しみつつ、落ち葉の音さへ聞こえますほど、静かな山荘で、人の親切をしみじみ受けて、過ごしています。
いつぞや、先生も、御眺めあそばした西の山々、東寺の塔は千年の泰平を夢見ておるかの様に、ぼんやり、朝霧の中に眠っているようです。

武子はこの様に、便箋に書き留めている。
武子にとって、京都は故郷。それでも山荘の秋は淋しくてならなかったであろう。
毎夜、一首、二首とまとまりのつかぬままに書き付けた歌。
それは、恋しい先生に謡ってもらいたい、和の歌の相聞歌の世界だったのでしょうか。
やがて明治も終焉を迎えるのである。

四十五年七月三十日。
東京に本社をもつ新聞社は、ロンドン発の記事を伝えている。
イギリス国の、アーサー、オッコンノート殿下は、ヨークで行われた、衛生博覧会の開会を司どられたるが、その際演説して曰く。
「イギリスは、日本に学ぶべきものすこぶる多し。なかんずく、いかに低級の家庭といえども、常に清潔なるがごとき点、すなわち是なり」
殿下は、冷静にしてよく日本のことを研究していると言う事であろうか。
当時、我が国では、手洗い、すすぐ、所謂、うがいの実行を始め、朝の挨拶、礼儀、身の回りの整理整頓に力を入れていたのである。
なかんずく、やがて母となる女性の、家政教育を早くから立ち上げた事は、当時の教育関係者の、人格と力量が正に優れていたと言っても過言ではない。

この頃、歌子は実践女学校の経営に専念していた。
歌子が学習院の教授兼女子部長の役職と決別したのは、四十年十一月二十八日の事である。
壬生の小夜子は歌子に招かれて、学校を訪問したのである。歌子と小夜子は向き合っていた。未来と理想を語るのが、淑女たる所以であろう。
「私の理想、そうねえ」
と言って暫し間を置いた歌子。
「先生」
と小夜子。
「そうね、この広い世界ね」
「世界」
と聞いて驚く小夜子。
歌子は、明治二十六年、欧米各国への視察を命じられている。
この頃から考えが変わってきている。広い世界を見たからであろう。自身の中にあった、皇室中心主義が少し色あせて来ていた。
「この広い世界を舞台として、活躍してくれる学生を作る事ですわ」
と歌子。
「先生には、日本はあまりにも狭すぎるのですねえ」
と言って微笑む小夜子。
「そうですはねえ、才媛は国境を作らないし、また、教育に国境があってはならないと思います」
と歌子。
「先生は怪物ですわ」
と小夜子。
「私が、怪物?」
「ええ」
鹿鳴館の孔雀とも言われ、数々の批判の嵐のなかで生きてきた歌子。
歌子の脳裏をかすめたものは何であったのであろうか。




(了)

短編小説・鹿鳴館の淑女たち7

短編小説・鹿鳴館の淑女たち7


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち1


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち2


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち3


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち4


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち5


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち6




同じく、二十一年七月二十日。
偉大にして高潔なる幕臣、山岡鉄舟死去す。
この時、東京に居た、関口静岡県知事は、直ぐに、静岡県内に隠遁している、徳川慶喜公爵に、訃報を報せたのである。
これを受けて慶喜公は、電報をもって懇ろな弔詞をおくられたのである。
「山岡鉄舟という称号は、武士道の代名詞だ」
と、勝海舟に言わせた人物である。
残された妻子は悲惨であった。
「鉄舟と言う人は、これはまた、とんでもない変わり者で、妻子を養う事など私事であり、客にはもてなし、幾多の浪人も、居食させましたから」
と、内儀のうちは話す。
「それは大変な事で」
と、旧幕臣で、鉄舟の部下であった彼は、慰めるのである。
「時には野辺に出て、アカザ、その他の草木の葉や根や実を採って来て食べた」
と言う内儀。この内儀、悲惨と貧乏のどん底の中でも逃げ出さなかったのである。
同じく、旧幕臣で彼の部下、この人は、明治政府に迎えられやがて爵位と、高い地位を与えられる様な活躍をするのである。この人物こそ、山岡家の窮状を救い、妻子の命を繋いだのである。
この人言わく「妻の鏡」。
次の日、七月二十一日。
土方宮内大臣は、休暇を賜り、午前六時十五分、新橋発の汽車にて、相州箱根宮ノ下温泉へ赴いている。宮ノ下の奈良屋兵治方へ投宿したのである。
ああ、維新は遠くなりにけり。
日本中が燃えていた、青年の様な国に生きた明治の人々。こんな時は、徳富蘆花の小説・不如帰『ホトトギス』が良いようである。三十一年に発表された。
そして、正岡子規の俳句誌『ホトトギス』も良いようである。
青年のような心で、青年のように未熟な国ではあったが、男も女も燃えていた。日本中が燃えていた。救国の情熱、いまに伝えたり。
ああ、明治は遠くなりにけり。

さて、公卿の世界も、二十一~二十二年頃になると、岩倉公の若君。岩倉具定、二条公の若君、九条公の若君、西園寺候の若君が、鹿鳴館の淑女たちの噂と共に、表舞台に登場して来るのである。鹿鳴館はさらに華やいだものになってゆくのである。さらに、木戸候の若君や、新華族も。
新大使、加わり、頂点に達するのである。

やがて、時はすこし流れて、大和田建樹は旅の空にあった。
その仕業は、歌人の心を慰めるに似ている。
明治二十七年~二十八年、清国との間で行われた、日清戦争で、教え子を亡くしている。
また、教え子の東子はこの時、亡くなっている。
教え子を亡くした悲しみ、分けても東子を亡くした悲しみはあまりに深く、心は傷ついたまま、旅路の果てに、この海辺に辿りついたのである。
遠くには由比が浜より、三浦の方まで、一望に出来る所にあって、夕波の声を聞いて、流れる涙と共に、昔を懐かしむのである。

そして十年の歳月は流れて、明治三十七年。日露戦争の最中、与謝野晶子が、衝撃的な長編詩を発表するのである。
旅順口包囲軍の中にいる弟を嘆いて「君死にたまふことなかれ」を明星誌上に発表したのである。
これを、作家の大町桂月は、
「晶子の特長は、和歌にありて、文章にあらず、新体詩にあらず。不得手なる事に手を出さざるは、本人の為にも得策なり」
と言って痛烈に非難するのである。
続いて、桂月は、忠君愛国の心無きものなり。義勇のこと、公に奉ずるべしとの、教育勅語を非議するものなりと、指弾のキャンぺーンを繰り広げたのである。
晶子も負けていなかった。
「これは、戦地にいる弟に対する姉としの真情の吐露であり、真の心を、真の声に出したまでのこと」
と語っていくのである。
また、
「何事にも、忠君愛国などの文字や言語。そして、畏れおおくも教育勅語などを引いて、論ずる事の流行は、かえって危険きわまりない」
と、晶子は反論するのである。
悲しきかな、世間は晶子に対して、冷たかった。このいつ果てるともしれない、桂月と晶子の論争に、翌年一月十一日の読売新聞は、晶子を是とし、桂月を非とする文章を掲載したのである。
晶子の詩の情の声なりと褒め、晶子こそ詩歌の何たるかを知る者と、晶子をかばっている。
これより「読売の文学論、優れて高潔なり」と語る文士も出てきている。文学界の流れは晶子に傾いていった。

この頃、九条武子は、愛する人と旅の空にあった。
武子と言えば、晶子と和歌の仲間というべきであろう。文学界でも広く知られ、深い親交は知る人は知る、深さであった。
東京から伊豆へ、そして京都へ、吟行の旅は続く。
「私にはあなたがいる。あなたがいる。あなたがいるから生き抜いていける」
と、武子は訴える。
和歌の先生は、
「この激動の時代も、あなたと巡り合うためにあったのかもしれませんね」
「その激しさが、かえって私の心を燃え上がらせるのかもしれませんねえ」
と、武子。
和歌の先生は、私用で大津あたりから、東京へと帰って行った。

短編小説・鹿鳴館の淑女たち6

短編小説・鹿鳴館の淑女たち6


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち1


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち2


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち3


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち4


                                         短編小説・鹿鳴館の淑女たち5




とある日の事、
「歌子先生」
と梅子。
「ああ、梅子先生、何か?」
と答える。
「森有恒文部大臣もお見えになるのでしょうか?」
と質問する梅子。
鹿鳴館の舞踏会を意識しているのである。
「ええ、勿論ですわ」
と歌子。
「やっぱり、そうですわね」
と梅子。
「文部行政に精通しているのは、あの人を置いて他にはありませんから」
と歌子。
「ぜひ奇遇を得たいものですわ」
と梅子。
「ええ、上手くいけば、きっとあなたのこれからが開けてくると思います」
「頑張りどころですね、歌子先生」
「そうですよ、あなたの、勝負どころです」
森有恒は、元治二年。薩摩藩派遣の留学生として欧米に出かけている。明治三年には再び渡米して外交活動をするかたわら、欧米の宗教、教育、文化について研究している。
帰国後、福沢諭吉、西村茂樹らとともに活動するのである。いわゆる欧米派と言われ人たちである。
明治十八年十二月。第一次伊藤博文内閣の初代文部大臣になっている。近代教育の確立と学制の充実。なかんずく、中、高等教育の充実に乗り出すのである。
悲しきかな、二十二年二月十一日。帝国憲法発布の当日に、国粋主義者によって暗殺されたのである。
有恒を偏った欧米化主義者と決め付けた者の誤解によるものである。
有恒は、日本人の知的レベルの高さを、良く理解していた、進歩主義者でもあったのだ。

明治二十年、伊藤博文が主催した仮装舞踏会。
岩倉具視の次女に、不埒な行いに及んだ事件は、『女学雑誌』で暴かれてから、更なる波紋を読んで行くのである。『公爵様』と岩倉の次女。
「これはこれは、岩倉様の」
と博文。
「公爵様は、鳳仙花の花言葉を御存じですか」
と次女。
「いいや」
と生返事。
「花言葉は、私に触らないで下さい、と言う事ですわ」
と冷たく言い放つ。
「いや、これは参ったなあ」
と博文。照れ笑いをするのである。
傍らにいた壬生小夜子。
「品性を疑いましたわ」
と彼女。
小夜子はじめ淑女達の顰蹙を買ったのである。

ここで話を華族女学校に戻してみたい。
最初の生徒は八名であったが、順次増えていった。
「歌子先生、先生の思い出に残っている生徒は?」
と小夜子。小夜子も生徒になったのである。
「私が、一日たりとも脳裡を去らぬ生徒は」
と歌子。
「それは誰ですか?」
「やはり、奈良原繁男男爵の令嬢ですね」
と歌子。
「時子様ですか?」
「ええ、死んだ子は顔、美しいものです。何かにつけて良い点ばかりを思い出すのです」
「それが人の世の常でありましょう」
小夜子は歌子先生に気に入られたいからしきり近づく生徒なのである。
「私は今でも、時子様、古の賢人に劣るとは思われません」
「歌子先生は、親しく教鞭を執って、日々接しておられましたから」
「級友の内、群を抜いた学力」
「優れた知恵を持っておられたのですね」
「中でも、理科学の方は、天才とも言うべきものがありました」
と歌子。
「天才的な」
驚きを隠せない。
「理科学に優れているだけに、頭脳は極めて明晰でした」。
これは意外な会話と言える。
伊藤博文や井上毅、西村茂樹『校長』が目指していた人物像とは、明らかに違っている。
「絶えず勉強していましたねえ」。
時子の父君は、前の沖縄県知事であり、勤皇の志士であった。あまりにも若過ぎる死を惜しむのである。

少し日々は流れて、大和田建樹は旅の空の下にあった。
建樹は東子が教鞭をとる、女学校に来ていのである。東子が心密かに愛した人は、師である建樹だったのかもしれない。師弟の絆で結ばれていた二人。別離を乗り越えて再会したのである。
建樹は、東子の要請を受け入れて、出張講義をすることになったのである。少しも苦にならない建樹。東子に導かれて応接室に入る。
机を据えて、白菊と青南天とを瓶に刺したるのを見て、
「ああ、女学校だね」
と語るのである。
東子は、そんな先生の言葉に感性の豊かさを知ったのである。
東子は露草が大好き。ツユクサ科の一年草で、高さ三十センチメートルにもなる。葉柄は鞘状。夏藍色で左右相称の花になる。友禅染めの下絵に使われる青花紙の原料として、今でも青花は栽培されている。
ここで、信濃の美しき花東子が、どうして鹿鳴館に出入りして、活躍できたか、書いておかねばならないだろう。
当時、鹿鳴館では淑女の不足を補うため、華族女学校に応援を頼む事が、少なからずあった。東子は、小夜子と共に参加する事になっていた学友の身代わりなったのである。
一日だけの舞踏会を経験したのである。これには東子の好奇心もあったが、小夜子のちゃめっ気もあった。当時、華族女学校では西洋音楽を取り入れていたから目をつけられたのであろう。
さて、東子はどうして小夜子を知ったのであろうか。
東子は京都を旅していた。平安京と、三十六歌仙の故郷を訪ねての旅路の途上にあった。

さて、小夜子は東子のどこを気に入ったのであろう。
「私の何処が良いの?」
と東子。
「国文学、なかんずく、郷土の民族学に対する、深い造詣ね」
と、小夜子。
「そう」
「あなたの全てが信濃の太地」
と、小夜子。
「小夜子様の言の葉は、平安の調べそのもの」
と、答える東子。
古都、京都の南北を貫く大路に向かう二人の姿。しなやかで、長身の二人の乙女の姿は、ひときわ美しく映えたに違いない。
東子は言う
「鹿鳴館はあなたを必要とするでしょう」
「ええ、私の人生芝居は、鹿鳴館から始まるのでしょうねえ」
と、答える小夜子。
小夜子は、自身の美貌に惚れ込んでいた。
「そうだ、東子さんに鹿鳴館を見せてあげる、ね、良いでしょ」
「有り難う」
生半可な返事をする東子であった。
そして、明治二十一年の七月十一日を迎えたのである。
内閣総理大臣に、白爵、黒田清隆。大蔵大臣に松方正義。
十二日。文部大臣に、子爵、森有恒。通信大臣に、子爵、榎本武揚が発表された。
十三日、華族女学校校長に、陸軍中将、谷干城。
梅子は問いかける。
「歌子先生、納得できません」
「何がですか」
と、歌子。
「谷陸軍中将が、校長になられた事ですわ」
と梅子。
所謂、欧米で言う所の、司法、教育の中立性であろう。
「別に、問題はないと思いますが」
と、歌子。
歌子は、勤皇の志士に対して特別な思い入れがあった。それは、厳父も、祖父も名の知られた勤皇家であったからだ。梅子と言えば、欧米の教育理念を理想としていたから、軍人が校長に就任する事に抵抗があったようだ。

短編小説・鹿鳴館の淑女たち5

短編小説・鹿鳴館の淑女たち5


                                                 短編小説・鹿鳴館の淑女たち1


                                                 短編小説・鹿鳴館の淑女たち2


                                                 短編小説・鹿鳴館の淑女たち3


                                                 短編小説・鹿鳴館の淑女たち4




時代の流れよ、お前は何を語ろうとしているのか。
西郷隆盛の征韓論は破れ、隆盛城山に自陣す。これは、幕末より続く攘夷の終末を意味している。
「我らの時代の到来よ」と、長州閥の頭目、山縣有朋はほくそえんだ。果たして、傑出した政治家というものは、庶民が作り出すものなのだろうか。とてもそうとは思えない。時代という大河の流れが作り出すものかもしれない。木戸孝允、伊藤博文、薩摩閥の大久保利通、黒田清隆らは、維新という時代の流れが生み出した政治家であろう。「今流れはどこを向いている」と鹿鳴館で語られる言葉は、意味深長ではある。国内の氾濫分子を完全に押さえきり、内冶はここに成ったのである。
時代の流れよ、お前は、また、語らねばばらないだろう。対外へ、別けても日清、日露との外交は緊急を要していたのである。時代の流れは、外交手腕に長けた政治家を作り出そうとしているのであろうか。必要としている事は確かである。
京都の人々は、関心のある事を、洒落ていう言葉として、北山時雨という。
北山に時雨の降る頃が勝負の時のようである。
今、国民の一番関心のある事は、やはり憲法制定と、国会の開設であろう。
市井の政治家は、政党の結成を進めてゆくのである。
鹿鳴館では、長州閥、薩摩閥、台頭してきた自由民権派の、虚虚実実の駆け引きが続くのである。仮面の下に隠した魔性の人格と、魔性の人格を巧にコントロールできるしたたかさがなければのし上がれない。ここは主戦場なのである。
まして、鹿鳴館では淑女たちに嫌われたら終わりである。
勝利のキャステングボードは誰が握っているかをよく理解しなければならない。

時代という大河の流れは、時には、何と激しく刹那に流れて行くものであろうか。
浮かび上がる者と流されていく者、あるいは溺れていく者。溺れていく者の哀れなる事はこの世の定めなるかな。
明治二十一年九月、二十六歳の、森鴎外はドイツから帰国した。二十三年、陸軍軍医学校の教官となっていたが、小説『舞姫』を発表する。
鹿鳴館の淑女達の間で、密かに囁かれていた結婚相手は誰になるのであろうか。
その相手となる、海軍中将赤松則良男爵の娘、登志子もその中にいた。
また、笠原の東子といえば、
「時代よ、激動なさりたければ、どうぞ御勝手に」
と言って、初志貫徹のままに、故郷に帰って教師になった。
建樹は、彼女の能力を惜しんで、本学に残って研究に励むように進めたのである。適切な助言ではある。
当時、東京には欧米からの文化や、科学、技術が大量に入ってきていた。
東京は時代の最先端にあったのである。
建樹は、この首都東京で、学者としての才能を花開かせてやりたかったのかもしれない。
東子といえば、豪農の子女とも、村長の子女とも伝えられているが、笠原のと言えば、相当名の通ったところをみると、郡長か郡書記を務めた事もある名家だったのかもしれない。
明治という時代を生きた女たち。樋口一葉もそうであったが、時代の流れを超越して生きようとしていたのであろう。

時は同じ頃、明治二十年初春の事。
心の氷はつれなくも、名のみの春では、溶ける事もなし。
心と心を通わせあったのも、今は昔の事なのか。
「出かけてくる」
と伊藤博文。
「あなた、いいわねえ。少しくらい酒を飲むのは良いけれど、でも、飲み過ぎると言うのは」
と夫人。
「分かった、分かった。少し控えめにするよ」
と博文。
「飲み過ぎると言うのは、どんな人格なのでしょうねえ」
と夫人の冷めた言葉。酒面で帰ってくる主人をもう見飽きている夫人である。
「うーん、常識を超えている」
と博文。開き直りとも聞こえる。この、酒癖の悪さが、やがて悲劇をもたらす事になるのである。
夫人は、白芸者上がりである。同じ芸者上がりの夫には、元駐米公使の吉田。同じく公使の九鬼。それに井上馨などである。
「この激動の時代を生き抜いてゆくには、お前が必要なんだ」
と言って口説いたのであろう。
あの幕末から維新にかけて、生死の狭間で燃焼した愛は、遠い過去の出来事になってしまったのか。二人の仲は冷え切ってしまっている。この事は、広く世間にも知られるようになってきた。これらの事に関して、梅子の悩みは尽きなかった。
一つは、欧米には身分として、芸者が高貴なる人の夫人に納まっている事などありえない。
梅子は、欧米の家政事情に精通していたからなおさらである。
もう一つは、二~三年前まで、伊藤の二人の娘を預かり、英語などを教えていた手前、伊藤家の家庭事情にはことのほか気を使っていた。梅子もまた、欧米文化と教育への憧れと目標がある。ああそれなのに、それなのに、全ては維新と言う時代の流れが作った事であるから、梅子あなたならどうする?

明光は正義に通じる。
不正を白日の下に晒けだすのが善行であり、闇に葬るのが悪行である。
漆黒の闇に葬って良いものと、そうでないものとの峻別を、はっきりさせる事は、やがては正義に通じる道ではないだろうか。
さて伊藤博文はと言うと、先に華やかな舞台に登場していた、木戸孝允、大久保利通らに比べて遅れをとっていた。
そんな博文が、歴史の華やかな舞台に登場してきたのは、明治も十三年になった二月の事である。
当時、元老院議長の要職にあった有栖川宮熾仁親王。
親王は、
「立憲について、諸参議の意見を聞きたい」
と発言を求めた。
これに対して、黒田清隆伯爵、大木喬伯爵、山田顕義伯爵や、井上馨侯爵、山縣有朋公爵と共に、促誠の意見書を、上申(上申書)したあたりからであろう。
博文はついに、歴史の表舞台に登場したのである。
明治十五年二月。今上様は、いわゆる世間における、政治家、知識人、学者らの論戦を
深思に受け止め、身命を掛けて、玉座を出られて御前会議に臨まれたのである。
有栖川宮熾仁親王。三條実美、岩倉具視らに対して『憲法制定』について御下問に及んだのである。ここから、憲法制定、国会開設の流れは加速していったのである。
当時、今上様は、漢学を高辻修長子爵の父君に学び、和歌を西三條定義の祖父、西三條季知に学んでいる、いかでか、我が心の月を表して、平安の世永らせむと望まれたのであろう。平安の世を永くと言うのも、頂点に立つ者の求めるべき政策であらねばならない。

短編小説・鹿鳴館の淑女たち4

短編小説・鹿鳴館の淑女たち4


                                                 短編小説・鹿鳴館の淑女たち1


                                                 短編小説・鹿鳴館の淑女たち2


                                                 短編小説・鹿鳴館の淑女たち3




さて、その建樹の教え子である、笠原の東子はどこの地にいたか。
東子は、月の名所で名高い信濃の生まれである。月の名所と言えば、明石、広沢の池がある。東子が語るには、信濃には童歌に良いものがあると言う。
手毬り歌や、鳶や雀。あるいは烏など歌ったものには、実に素朴で良いものがあると言う
のである。郷土文化の研究に生きる東子らしい。また、東子は、信濃の国には、神無月はないと言う。出雲の神様が、神無月になると黒い雲に乗って、信濃の国の諏訪湖へお帰りになるからだと言う。東子が故郷に帰って、女学校の教師となった年月はあまりに短かかった。
ああ、美人薄命なり。命短し恋せよ乙女、熱き血潮の消えまに、華の輝き失せまに。
東子は偶然から、華族女学校の生徒と知り合いになり、短い間ではあるが鹿鳴館で活躍するのである。華やかに進む欧風化の東京、そして、社交界の主戦場鹿鳴館。
鹿鳴館は、彼女の出入りを否定しなかった。
欧風化の進む東京と教育、伝統文化と芸術、教育を守るという、次代の嵐に、当時の優秀な女性教育者は翻弄されていた。
東子が、恩師大和田建樹の助言を振り切り、故郷信濃の女学校の教師になったと言う事は、恩師への返答というより、時代の嵐に対するしっぺ返しと言うべきであろう。
東子もまた、明治の女なのである。

さてここで、高貴なる人の邸宅と言うものはどう言うものか、公卿はどう動いていたのかと言う、裏話を交えながら書いてみたい。
摂家の中には、御所の内に本宅を持つ家もあったが例外と捉えて頂きたい。必ず正門、いわゆる表門と、裏門が存在する。
母家『おもや』の他に、離座敷『はなれ』があり、書院が存在する。また、その位置によって、表書院と奥書院もある。
武家の出は黒書院、公家の出は白書院を尊んだようである。
公爵様の中には、本邸『本宅』の他に別宅を所有する人も居たのである。
さてここで、贈答品を届けるには、どうすればいいかと言えば、当主の依頼を受けて手代が本宅を訪問する。
裏門から入って、奥の勝手口と足を運んで、女中頭に声を掛けなければならない。
奥向きの事は、この女中頭が実権を握っている。彼女に嫌われたらお仕舞いである。叩き出されるだけである。丁寧に挨拶して、奥方様への取次ぎをお願いするのである。そして裏玄関に戻って、奥方様の登場を待つのである。
奥方様のお出ましにあたっては、深々と頭を下げなければならない。
次に、当主や店主からの口上を述べるのである。仮にも当主の名代であるから、言葉は丁寧に凛としていなければならない。
間違っても表玄関から入ろうと思ってはならない。分をわきまえる事である。
贈答品と書状を差し出してから口上を述べるのである。
終わりに、
「くれぐれも、ご主人様にはよしなにお伝えください」
と申し述べるのである。
これを受けて、
「御当主(店主)様には、よしなにお伝えください」
と答える奥方様。頭を下げてくだされば上首尾と言うものである。

さて、その高貴なる人たちであるが、二家はどのように動いたのであろうか。
激動の幕末、当時関白であった、九条尚忠(まさただ)は、幕府の大老、井伊直弼と連携して、将軍に紀州の慶富を擁立(きしゅう派)し、この難局を乗り切ろうとしていた。
攘夷の無謀を知り、開国しながら、新たに富国への方策を探っていた。
対決する、左大臣近衛忠ひろ(ただひろ)は、長州の詩僧、月照を知恵袋に、朝廷内の攘夷派と村岡を動かし、一橋慶喜の擁立(一橋派)を画策していた。あくまで、攘夷の断行を迫って行くのである。風雲は急にして、正に一発触発の危機にあった。
ああ、維新は遠くなりにけり。

さて、話しの続きを元に戻そうではないか。
明治二十年、四月二十六日。内閣総理大臣、伊藤博文が、総理官邸で主催した、仮想舞踏会。この舞踏会で、ベネチアの紳士に紛した博文が、岩倉具視の次女に不埒な行いに及んだと伝えられている。博文は酒豪であったから、酒に酔った勢いでした事とも考えられるが、真実は明らかにされていない。
当時、自由民権派の運動家は、外交の不手際と、農政の不在を理由に、政府を攻撃していたから、格好の材料にされたのであろう。
まあ、伊藤の心底を読み取るに、岩倉が存命中は、今上様の重臣であり、伊藤は、従臣であり、臣下にすぎない。
岩倉は、ことのほかこの立て分けには厳しかったし、常々、早急な政策の遂行を迫っていたのである。伊藤にとって、目の上のコブが取れた今は、しっぺ返しに近いものがあったのかもしれない。

明治を駆け抜けていった女たちよ。あなた達を、心の鏡で見るならば、その心は太平洋よ
り広く、心の丈は富士山より高いと言わざるを得ない。
若松しず子と津田梅子は、夫厳本善治を介して知り合ったものと思われる。欧米への憧れ。しとやかで美しく、人形のように可愛い女性ではなくて、とと『考える女性、知恵と行動力を兼ね備えた女性』、それが二人の理想として、心の花園にあったのである。
若松しず子。会津藩士の娘、明治期を代表する文学者であり、女流翻訳でもある。『女流雑誌』に創作を発表。また、『小公子』『小公女』などの翻訳を通じて、英文学を紹介している。惜しむらくは、三十三歳の、女の厄年を前に亡くなっている。
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」とは、彼女の為にある言葉のようである。
生き抜いて、研鑽あれば、明治の文学にどれ程の光明を与えたか計り知れないものがある。
しず子とともに、見を落せない淑女に大塚楠緒子がいる。楠緒子は、歌人、詩人であり、小説家である。「未来に生きる」と楠緒子。それが、若松しず子へのはなむけの言葉なのだろう。楠緒子は、和歌を佐々木信綱に学んでいる。小説は『晴小袖』などがある。やがて、与謝野晶子と同じように、反戦的な誌を作るようになるのである。
女性の愛と情熱のままに、晶子と共どもに、反戦と文化の繁栄に生き切ったと言うなら、
これも明治の女。百花繚乱とはこの事なり。

和歌弐題・逝く春を惜しみて

和歌弐題・逝く春を惜しみて

(一)
緑なす
杭瀬の川に
春は逝く
君とだぶらせ
陽射し惜しむや

(二)
鶯の
声が流れる
杭瀬川
風の優しさ
涙流れる


杭瀬川に、鶯の声が流れる頃は、
全ての愛と憎しみと、悲しみを連れて逝く。
そんな春の終わりである。

短編小説・鹿鳴館の淑女たち3

短編小説・鹿鳴館の淑女たち3


                                                 短編小説・鹿鳴館の淑女たち1


                                                 短編小説・鹿鳴館の淑女たち2




さて、少し時は流れて、伊藤博文が、鹿鳴館の晩餐会に、下田歌子や、津田梅子を招いたのは、それなりの魂胆があったからだ。
かねてより、懸案となっていた、学習院の女子部を独立させる為である。
学習院は、西美濃は高須藩『尾張徳川支藩』に住する座田維貞の建言により、功化三年(一八四六年)建春門外に設立されたものである。
維貞は、鷹司政道、三条実万、三条西季知らの、公家の知遇を受けていたのである。
また、維貞は、君臣の大義を明らかにして、大和魂を育て、国体を護持しようとする『国基』一巻を著作したのである。
この著は、孝明天皇も御覧になったと言う事である
この頃、伊藤博文や森有恒たちは、華族女学校の設立に腐心していた。
博文や森有恒らは、欧化『フランス、イギリス、アメリカ』主義者として、その思想のままに、行動して来たが、やがて望まぬまま、ドイツ帝国主義、いわゆる絶対君主制主義者の前に、転換せざる得なくなるのである。
その、絶対君主制を唱える中心人物は誰かと言えば伏見宮様と言わざるを得ない。
明治三年、北白川宮を作り、次いで十二宮家全て、伏見宮家の分家として興したのである。
結果論から語るのであるが、間違った解釈とは思わない。
明治時代、祇園で密やかに語り伝えられる言葉には含蓄がある。
「あら宮様、お見限りの事」
と舞妓。
祇園では伏見宮様とは言わない。宮様で通るのである。
「うーん、祇園でドンチャン騒ぎをするのも、我が楽しみぞ」
それほど、伏見宮様の祇園遊びは有名である。
「あら、宮様」
で通って行ってしまうその事が、真実を語っている様に思えてならない。

当時、歌子は桃沃女塾を経営していた。
津田梅子は、桃沃女塾で、伊藤の長女を含めて、井上馨の二人の娘達や、維新の勲臣の娘たちを、生徒に持っていたのである。
この桃沃女塾と学習院の女子部を合同して、華族女学校を作ろうというのが、伊藤博文や、森有恒、井上馨らの考えであったようだ。
明治十八年初秋。九月は重陽の節句。
歌子と梅子の会話は弾んでいた。
「皇后の春子様は、女子教育の振興に、それはそれは、大変尽力された方ですから」
と歌子。
「皇后様は、見識を持った、聡明な方なんですね」
と梅子。
「それが私達にとって、どれ程、希望を与えているか計りしれません」
と歌子。
「皇后様を迎えての開校式は完璧なものにしなければなりませんね」
と梅子。
「もちろんです。重たい役目を受け持ったのです」
歌子の声が響く。
華族女学校では、十月に授業開始。十一月に開校式が取り行なわれたのである。
皇后の春子様は、一条忠香の娘であり、女子教育の振興などに尽力された事で知られている。
和歌や漢学を近衛、八田、高崎正風から学んでいる。
歌子は、先の皇后九条夙子、新たに皇后の春子様の殊遇を受けた事によって、華族女学校の学監から、全国婦人協会の会長に、そして、実践女子大学の創立へと登り詰めて行くのである。
実に大きな後盾ではあった。
梅子と言えば、同年九月、年俸四百二十円の、準奏任官で教授補に任ぜられたのである。
当時、奏任官は、歌子ただ一人で年俸五百円の待遇を受けていた。
梅子の待遇は破格のものと言っていいだろう。

明治よ、明治の文化と教育に多大な貢献をした、聡明な女性たちよ。
小金井喜美子よ。
夫、小金井良精は解剖学、組織学を研究し、アイヌの研究にも貢献した人類学者でもある。
自らの兄は森鴎外にして、彼女も『皮一重』『しらがみ草紙四号』『人肉』『しらがみ草紙六―十号』を明治二十三年三月二十五日、翻訳発表している。
景山英子、岡山藩の下級武士の娘として生まれたり。
婦人解放運動に活躍するのである。
婦人の解放には、経済的独立が先決であると考え、明治十六年、岡山に私塾を作ったのである。
同じ年には鹿鳴館が開かれ、砂上の楼閣は繁栄して行くのである。
英子の作った私塾は禁止され、新たな活躍の舞台を外に求めていかざるを得なかった。
喜美子も明治の女、英子も明治の女。共々に『この時代の花よ』と言ってやろうではないか。
さて、『人間いたる所に青山あり』とは、幕末に活躍した、周防の詩僧、月性の言葉である。
人間何所で死のうと、骨を埋める所くらいはあるから、故郷ばかりに拘らず、広く社会に出て、大いに活躍すべきであると言う意味だ。
また、忘れてはならない人物がいる。大和田建樹は、愛媛県宇和島に生まれた。
明治を代表する国文学者であり、優れた歌人である。
独学で教育界の大家と成り得たのであるから、相当の苦労をしたのであろう。
男女高等師範学校の教授にまでなり、多くの教え子を輩出しているのである。
『新体詩学』を始め、多くの著書を残している。
なんといっても、二十年に作詞、発表した、『鉄道唱歌』は、あまりにも有名である。

短編小説・鹿鳴館の淑女たち2

短編小説・鹿鳴館の淑女たち2


                                                 短編小説・鹿鳴館の淑女たち1


さて、鹿鳴館と言えば、明治十六年、十一月二十八日。
午後十時半より、開館を記念する祝賀夜会、舞踏会が行われたのである。

鹿鳴館は、当時の金で、十八万円の大金を投じて建てられた、イタリア、ルネッサンス様式の洋館であり、イギリス人の建設技師の設計によって建てられた。
これには明治六年に来日し、工部大学校の教頭、教授を九年間勤め、近代工業技術教育の確立、発展に貢献したイギリス人ヘンリー・ダイアの活躍があった。
イギリスの産業革命を遂行し十九世紀の大英帝国の繁栄を支えたのは、スコットランド人の啓蒙主義であり、それを経験し現場で学んだ、教師や技師たちであった。
グラスゴーより、世界へ、明治の日本に送り込んだ、技師や教師たち。
その中心をなしたのがグラスゴー大学であった。
かの伊藤博文も当初はイギリス型の社会作りを目指していたのである。
日英同盟から今年で百十年になる。
今再び見直される時が来たのかもしれない。
鹿鳴館はやがて、舞踏会、晩餐会、仮装パーティーなど多彩な企画が行われる様になるのである。
ある意味では、鹿鳴館とは、イギリスやフランス、ドイツやアメリカのとの外交の場であり、古くからある教育と、近代教育への転換、武士、藩の古い勢力と新たに台頭して来た官僚との対決の場であり、いずれにおいても、その主戦場となる悲劇を持つ事になるのである。
活躍せよ、鹿鳴館の貴婦人、淑女たちよ。
あなたたちが煌きだした時、夜の幕は降りるのだ。

明治と言う時代を、教育と文化を中心に見詰めてみたい。
時代を代表する教育家といえば、啓蒙思想家の福沢諭吉。
初代文部大臣を務めた森有礼であろう。
女子では下田歌子や津田梅子、捨松伯爵夫人ではないだろうか。
梅子は言った。
「私は、国費留学生として派遣させて下さった、国の大恩になんとしても報いなければならないのです」
彼女を推薦した、先の天皇、孝明天皇の正室、九条あさ子は黙って肯いた。
梅子を駆り立てたものは、報恩であったのか、使命の二字であったのか。いずれにしろ、広く世間に知られた生き様ではある。
さて、梅子の言う留学とは、岩倉具視の欧米への、遣外使節団である。
使節団が横浜港からアメリカに向けて、出発したのは、明治四年十二月の事であった。
その中に、上田貞子十四歳、吉益享子同じく十四歳。山川捨松十一歳、永井繁子七歳、
津田梅子、同じく七歳の五人であった。
捨松、繁子、梅子は、ザ、トリオと言われて、黎明期の教育界で大活躍するのである。
本当に幼い少女たちであったけれど、実に重たい使命を帯びた旅立ちであった。

京都、それは千年の都。
菊花、それは千年の愛と悲しみの香りを残して今に咲く花。
菊は中国から伝わり、千数百年を越えるその長い歴史の積み重ねから、伝統的な和菊が分化した。
和菊の中で、アワコガネギクは、内陸に咲く黄色い野菊。
アワは泡の意で黄金色をした直径一・五センチほどのやや小ぶりの花が、多数びっしりと
群がる様子を例えて、牧野富太郎博士が命名した。
別名の、キクタニギクは、京都の東山に『菊が渓』や『菊渓』(きくたに)と呼ばれ
群生していたのに因む。葉は薄く、地下茎は短い。菊には、菊水や、菊の露の様に、長命の悲願が込められている
その、悲願そのままに、愛と悲しみと、憎しみを、クロスさせながら今年も花は咲くのである。
さて季節はと言えば、仲秋から晩秋にかけて、春の佐保姫に対比する、晩秋の龍田姫の頃。
ああ、思い出せば、山河の輝きよ。浮かべれば月の光よ。
歌子は今、故郷への感傷に浸っていた。
名画の如き故郷の山河よ。
岐阜の岩村は、歌子にとって、瞼に焼き付いて生涯消える事がなかったであろう。
故郷を出た時から覚悟を決めた人生だった。
当時、岩村には、優れた寺子屋が四つほどあった。
この地域の伝統的な、勤皇思想と、向学心を大切にする生き様から推察するに、ほぼ適齢期の子女全員が学んでいたと言ってもいいだろう。
また、岩村には秀でた藩校もあった。
歌子が、その中の一人であったかどうかは、知る術もないが、正に優れた教育環境にあったのである。
故郷の山河よ、お前は偉大なる師匠なり。
たくましき父よ、愛しき母よ、懐かしき友柄よ。
あなた達は真に秀でた教師なり。
例え百人の優れた先生を集めた所で、お前たちには適わないだろう。
歌子は、思索を重ねるのである。
人は理想を持たねばならない。
理想を持たない人生は、羅針盤を持たない、旅客船の様なものだ。 

短編小説・鹿鳴館の淑女たち1

短編小説・鹿鳴館の淑女たち1

それはまるで、波動が波動を呼んで来るように、波また波の時代、明治維新を越える事が出来たエネルギーも終わりを告げていた。
明治四年から二十年頃は過去と、開国、救国との攻めぎ合いの中で、新たな繁栄を模索していた、この時代の女性像、特に文化教育に限れば、優れた理性と見識を持った女性指導者が、多々輩出したことは特記すべきであろう。
現在の女性よりも、情熱、行動力、意思の固さは大いに優れていたのである。
旧藩、やがて県へと変わって行く中で、地域の窮乏を救い、新たな繁栄を模索していたのである。
心は、救国、救民で一杯であったとするならば、ああ、乱れ髪よ、その乱れし髪もそのままに、走り回っていたと言うなら、ああ、乱れ髪もまた美しいと言わざるを得ない。

明治の維新が、攘夷派を洛中から叩き出し、勤皇派で統合し成し遂げられたとするのは歴史の通りである。
これを、朝廷側から見ると見方も変わってくる。
四親王家の内、絶大な力を持っていたのは、伏見の宮家であり、三年には、北白川の宮を創設している。
明治に新設された十二の宮家は全て伏見の宮家の分家に過ぎない。
岩倉が、和宮降下を実現できたのも、禁裏を巧みに読み取っていたと言う事であろう。
時代という大河の流れ。それはまるで『維新』など、一夜の夢物語に過ぎないと言う事でもあろう。

鹿鳴館、それは、中国最古の詩集、『詩経』から取り入れている。
孔子の編といわれ、詩三百十一編からなっている。
歌われている、鹿鳴の宴を引用したものである。
唐の時代、管吏登用試験に及第して、都に上る者を送る送別の宴。
詩経の鹿鳴の歌を歌ってもてなした古事から来ているのだ。
さて、その鹿鳴館で、日本で初めて行なわれた慈善バザー会と言えば、明治十七年春に行われた、慈善バザー会ではないだろうか。
鹿鳴館とは、日本における慈善事業発祥の地でもあるのだ。
なにしろ、洋風かぶれの伊藤博文首相が、婦人たちの手でやってみてはどうかと、提案したのである。
言い出した人が人であるから、もう騒然。
伊藤夫人も、井上馨外務卿夫人も、準備委員に加わらざるを得ないと言うものである。
さて、委員長にはと言うと、今は伯爵夫人に納まっている捨松をおいて外にないと言う事になったのである。
捨松夫人は後々『鹿鳴館の花』と歌われる様になるのである。
津田梅子も委員の一人に加えられたのである。
この鹿鳴館のバザー会は、実に派手であった。
これには、軍楽隊も駆り出され、郵便報知などで、連日報道されたのである。
また、このバザー会は、東錦絵の題材にもなったのである。
錦絵と言えば、華麗な多色刷りの、浮世絵版画である。
ちょっと目を閉じて想像してもらえれば、いかに派手で絢爛たるものであるか、理解してもらえると思うのである。
この錦絵は相当買われた様であるが、現存しているとは、聞いた事がない。
さて、バザー会はというと大盛況で、初日に三日間分の品物を売り尽くしてしまい、慌てて商品の仕入れに走り回るほどであった。
金銭を扱った事もない貴婦人たちが、自分の手で作った物を売るなど、梅子には、とても考えられない事であった。
梅子の心配は、窮に終わった。
収益の八千円は、博愛社を通して、病院事業に寄付されたのである。
初の慈善事業は、日本を代表する淑女たちによって、達成されたのである
プロフィール

白浜 砂夫

Author:白浜 砂夫
どうも ”しらはますなお” です。

岐阜県大垣市在住
昭和24年1月11日生まれ
67歳
B型

好きな歌人は、女性では与謝野晶子、男性では、島崎藤村、石川啄木です。詩や和歌や小説を書き始めて20年あまりになります。鹿鳴館を舞台にした小説を書いております。63歳にして一念発起してパソコンを始めました。ブログにも初挑戦です。

最新出版物
白浜砂夫の電子書籍




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